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不倫のライセンス 21 心のモヤモヤ

21 心のモヤモヤ

 揺れる電車の窓から、流れていく景色を眺めていると、何か大切なものを置き忘れてきたような不安に駆られる。一時的とはいえ、礼治と距離を置くことについての後悔だろうか。
 それでも、今の私にはどうしても必要なものがあった。自らを見つめ直す時間、そして空間である。大きな後悔をしないためには、きっと小さな後悔ぐらいやむをえないことなのだろう。
 チラリと隣席に目をやると、そこには赤ちゃんを抱いた若い女性の姿。二十歳前後といったところだろうか。母親と呼ぶにはあまりにも幼く見える。先ほど一度目が合い、私の方から微笑みかけてみたのだが、笑顔が返ってくることはなかった。彼女は無言のまま、やや不安げな顔をうつむかせるだけだった。
 こういった反応を見るのは、私にとって決して珍しいことではない。もうすっかり慣れっこになっていた。外国人かもしれないと勘違いされているだけなのだ。そこに悪意はない。余計な緊張させてごめんなさい。逆にそう謝りたいぐらいである。
 気持ちよさそうな寝息を立てている赤ちゃん。あまりジロジロ見るべきでないとわかっていながらも、ついついその愛らしい寝顔に目を向けてしまう。
 赤ちゃんの心の中には、誰かに対する憎しみや、自らに対する憐れみという感情はない。あるのは、母親に対する百パーセントの信頼感だけである。もちろん、私にもそんな時期があったのだろう。しかし、なぜかその多くを忘れてしまったような気がする。もしも、苦しみより、喜びの方が、記憶に残りづらいのだとすれば、人間とはなんて悲しい動物なのだろう。大人になるというのはなんて過酷なことなのだろう。
 誰かに命がけで守られていた。そんな記憶が、もし鮮明に残っていさえすれば、人はもっとやさしく、もっと強く生きられるはず。少なくとも、命を粗末にするようなことだけはしないはず。そう思う。
 五年続いた敏明との結婚生活。その中には、もちろんたくさんの喜びもあった。けれど、いずれは、それらの思い出も消えてなくなってしまうのだろう。苦しみだけを記憶にとどめ、あの結婚は失敗でしたと、いつの日か、そう簡単に結論付けるようになってしまうに違いない。
 赤ちゃんのぐずり出す声に、私はふと我にかえった。少しうとうとしていたらしい。首筋のあたりに、軽い痛みを感じる。
 隣では、赤ちゃんの母親が、キョロキョロと周りを気にする様子を見せていた。気にすることないという思いをこめて、私が笑顔でうなずこうとした、その瞬間だった。
 どこからか、大きな咳払いが聴こえてきた。たちまち慌てふためく母親。赤ちゃんを左右に揺らしてあやすのだが、なかなか彼女の願いは伝わりそうにない。赤ちゃんの機嫌は悪くなる一方で、ついには大声で泣き出してしまった。
 反対側の席から、わざとらしいため息が聴こえる。見ると、サラリーマン風の男二人が、いかにも迷惑そうな表情を浮かべ、こちらの席へチラチラと視線を送ってきた。早くどうにかしろ。はっきりと顔にそう書いてあるのがわかる。また、どこからか大きな咳払い。そして舌打ち。
 必死に赤ちゃんをあやしていた彼女は、ついに耐えきれなくなったとばかりに、その子を抱いたまま席を立った。足早に車両の扉の向こうへと姿を消す。その様子を確認すると、反対席の男たちは、顔を見合わせて、やれやれといった風に苦笑を漏らした。そして、車内全体の空気が、何事もなかったかのような平穏さを取り戻すのだった。
 彼女たち親子は、たった今排除されたのである。この小さな空間が、快適であるために。この小さな空間が、大人たちだけのものであるために。
「何か、忘れてませんか?」
 気がつくとそう口に出していた。ほとんど無意識のままに。それでも、口調ははっきりしていたようだ。少なくとも、反対席の男たちの耳に届く程度には。
「忘れてますよね」
 訝る男たちに向かって、私は繰り返した。「赤ちゃんの声はよく聴こえるのに、私の声は聴こえないの?」と、さらに念を押す。
「な、何ですか、いったい」
 ようやく男の一人が口を開いた。ため息男の方である。やや驚いてはいるようだが、まだ口端に薄笑いを残している。
「大切なこと、忘れてませんか? さっきから、そう聞いてるの」
「何だよ、それ。誰かと間違えてでもいるのか? 俺が、何を忘れてるっていうんだよ」
 男の口調が、荒っぽいものに変わった。
「自分が赤ちゃんだった頃のこと、もうすっかり忘れちゃったんでしょ」
 少し声が震え出してきた。怯えからくるものではもちろんない。憎しみともちょっと違う。私の中に今あるものは、悲しみ、ただそれ一つだけだった。
 一呼吸置き、それから一気に心のモヤモヤを爆発させる。
「突然泣き出して、周りに迷惑かけたこと。言うことを聞かずに親を困らせたこと。自分もそうだったってこと、あなた忘れてるでしょ。誰にも迷惑かけずに、誰の手も借りずに、そこまで大きくなったわけじゃないでしょ。そのことも忘れてる。この社会が、大人のためにだけ存在してるんじゃないってことも忘れてる。自分のしたことで、どれだけ相手が傷ついてるかってことわかってる? それとも、さっき自分がしたことすら忘れちゃったの? わざとらしいため息とか咳払いとか、あれはいったい何なの? 赤ちゃんのいる女は、電車に乗るなってこと? 赤ちゃんが泣いたぐらいどうだっていうのよ。みんなそうしてきたんじゃない。みんなそうやって大人になったんじゃない。そのこと忘れてるだけでしょ。大切なこと、忘れてしまっただけでしょ……」
 最後は涙声になっていたかもしれない。自分ではよくわからなかった。ただ、言わずにはいられなかったのだ。悪意のこもったため息や咳払い。それらはれっきとした凶器だということを。
 他の乗客も、私の言葉に聞き耳を立てていたらしい。車内はすっかり静まり返っていた。男からの反論もない。納得したのかどうかはわからないが、今は黙って外の景色を眺めている。
 やがて、赤ちゃんを抱いた彼女が席に戻ってきた。
「ど、どうも……」
 聞こえるか聞こえないかぐらいの、小さくか細い声。それが、私が初めて耳にする彼女の声だった。どうやら、私と男とのやり取りを、彼女もどこかで聞いていたらしい。
「私、セシル。見かけによらず、日本語ペラペラなの。よろしくね」
「あ、よ、よろしく……」
 私たちは握手を交わした。彼女が、いかにか弱い手をしているかがすぐにわかった。子供を育てるにはあまりに幼すぎると、あらためて感じる。
 私に対する信頼の現れなのか、彼女は少しずつ自分のことについて話し始めた。
 未婚の母で、年齢は十九歳になったばかりだという。子供の父親とはすでに別れているらしい。妊娠したことをきっかけに、彼との関係がぎくしゃくしていった。そう話す彼女の表情が痛々しい。今まで気づかなかったが、こめかみのあたりに、うっすらとアザのようなものが見える。おそらく、ぎくしゃくした程度のことでは済まなかったのだろう。
「ご両親は、何て言ってるの?」
 これから実家に帰るところだという彼女に、私はそっと尋ねてみた。
 しかし、彼女からの返答はない。ただちいさくかぶりを振るだけだった。
 彼との交際については、最初から反対だったという彼女の両親。そのことに関して、これ以上の質問を続けることは、さすがにためらわれた。
 彼女のこれからを思うと、私の胸はどうしようもなく痛んだ。
 女ばかりが苦しい思いをしている。そんな気がする。それが無性に悔しかった。無性に悲しかった。
 流れていく車窓の景色が、ゆっくりと涙で霞んでいった。

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22 男女の友情
不倫のライセンス 目次

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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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No title

このエピソードに再会できて、とても嬉しいです。
ここは「不倫のライセンス」の中で一、二を争うお気に入りのエピソードなのです。

道中で出会ったわけ有り風の母子。自身もわけ有りのセシル。
子を持つ者と持たないもの、それ以上のたくさんが、このエピソードには詰まっていて。

セシルの語りが圧巻で、ここを読んで、こんなくだりがこんなに深くお見事に描ける作者の方は、絶対に女性だ。と私の思いを決定付けたエピでもあります(^^;)

それがっ。おっさん・・・いえ、ダンディーだったとは(^^;)

Re: No title

けいさん、コメントありがとうございます。

> ここは「不倫のライセンス」の中で一、二を争うお気に入りのエピソードなのです。

気に入ってもらえて、とてもうれしいです。
このエピソード、もともとプロットにはありませんでした。
セシルが故郷へ帰るまでの間に、何かもう一つ小さなエピソードが欲しい。
そんなきっかけで生まれたのが、今回のお話でした。

赤ちゃんが泣き出して、あたふたするお母さん。
言葉には出さないものの、明らかに迷惑そうな空気を漂わせる乗客。
そんな場面に出くわすことが、今までに何度かありました。
ああいった無言の圧力って、本当にたちが悪い。絶対に、何かが間違っている。
そんな私自身のモヤモヤを、今回セシルに託してみました。

> セシルの語りが圧巻で、ここを読んで、こんなくだりがこんなに深くお見事に描ける作者の方は、絶対に女性だ。と私の思いを決定付けたエピでもあります(^^;)

おっさんマジックに、まんまと引っかかってくれましたね。
それにしても、異性の心理を描くというのは、やっぱり難しいなあ。
女性作家が男性を描くより、男性作家が女性を描く方が、絶対苦労してるはず。

No title

こんにちは。コメントのお返事をしてそのままお邪魔させてもらいました。
一気にここまで読ませてもらいました。

夫婦って難しいなぁと、離婚してしまった私は改めて思います。自身の過去を思い出しながら読んでしまうだけに、苦しくなる場面、ですが片瀬様の軽妙な文章にクスリと来る場面。読むのが苦にならずに楽しませていただきました。

今回のお話は赤ちゃんとお母さんが出てきますが、人が沢山いる中での赤ちゃんの泣き声、子供の騒がしい声、母親でありながら私も少し気になってしまいます。しかし気になるのは、その子供や赤ちゃん自身ではなく、それを注意しない親のほうですね。親が怒ったりあやしたりしていれば、それだけで、理解しようとも思いますし、大変だよ、分かるよその気持ち。と、寛容にもなれます。
お互いが理解しあうことも大切だと思います。
セシルさんのように面と向かって礼儀のない人には言えませんが(笑)

ところで片瀬様は男性だったのですね・・・・・私もまんまと引っかかったクチです(汗)

Re: No title

凪さん、コメントありがとうございます。

> 今回のお話は赤ちゃんとお母さんが出てきますが、人が沢山いる中での赤ちゃんの泣き声、子供の騒がしい声、母親でありながら私も少し気になってしまいます。しかし気になるのは、その子供や赤ちゃん自身ではなく、それを注意しない親のほうですね。親が怒ったりあやしたりしていれば、それだけで、理解しようとも思いますし、大変だよ、分かるよその気持ち。と、寛容にもなれます。

なるほど。そういう見方もあるんですね。
これは女性、特に子供のいる女性の受け止め方かもしれません。
私の場合は、とにかく周りの人たちの冷たさが気になってしまいます。
確かに、子供ほったらかしのお母さんもいるんですけどね。
それにしても、女性は女性に厳しすぎるような気がするなあ(笑)

> お互いが理解しあうことも大切だと思います。

これは、まったくその通りです。
それでもやっぱり、子供を持つお母さんたちに対する理解は、社会全体に不足しているような気がする。これも、少子化の一つの原因では?

> ところで片瀬様は男性だったのですね・・・・・私もまんまと引っかかったクチです(汗)

そうでしたか。
よかった、と言うのも変ですが、ちょっとだけほっとしてます。
これって、不自然じゃなく女性心理を描けている、という風に受け止めていいんですよね。

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Re: No title

鍵コメフェチさん、コメントありがとうございます。

無事でよかったです。
すごく心配してました。つい良からぬ想像をしてしまうほどでしたよ。
とにかく、これでほっとしました。

もともと予定にはなかった今回のエピソード。
振り返ってみると、自分でもすっかりお気に入りの話になっていました。
この若いお母さんと、セシルとを、どこかで再会させようかな、などと考えたこともあったぐらいです。
気に入ってもらえて、本当にうれしいです。

以前と比べ、そんなには変更してませんよ。
言葉の勢いを崩したくなかったので、今回はあまりいじらないようにしました。

コピーの件ですが、
もちろんOKです。わざわざ許可を取るようなことでもないですしね。なんか照れちゃいました。宝物になるかなあ。
でも、うれしかったです。私を泣かせようという魂胆ですね(笑)

プロフィール

片瀬みこと

Author:片瀬みこと
札幌在住のアマチュア作家

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