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不倫のライセンス 18 浮気と不倫の違い

18 浮気と不倫の違い

 別れてくれないか。
 たった今耳にしたその言葉。夫が口にしたその言葉。反芻してみるものの、どうしても情報の処理がうまくいかない。
 離婚の申し出? 私とは別れたくないはずの夫の方から?
 敏明の表情からは、何の答えも読み取ることができない。それどころか、夫は夫で、逆に私の反応をうかがっているようにさえ見える。
「知ってるんだよ」
 敏明は、そこでいったん間を置いた。自らを落ち着かせるかのように、ゆっくりと息を吸いこみ、そして続けた。それは、私をさらに混乱させる言葉だった。
「相手は、成宮礼治。ジムのトレーナーだな」
 敏明は知っていたのだ。彼の存在を。
 なぜ知り得たのか? まさか、敏明本人が私の後をつけてきたとは考えにくい。興信所? そこまでするだろうか。いや、もはや、そんなことはどちらでも構わない。すでに離婚の覚悟はできているのだ。敏明もそれを望んでいるのだとしたら、むしろ私にとってはいいチャンスではないか。
 私が黙っていると、敏明は、ゆっくりとした動作でソファーに腰を下ろした。
「今ならまだ間に合う。もう、その男と会うのはやめるんだ」
 そこでようやく気づかされた。離婚の申し出ではなかったのだ。敏明が口にした“別れ”とは、私と礼治のことだったのである。
「敏明さんが言ったのよ。忘れちゃったの?」
 自分の声が震えていないことを確認し、私は、やや声のトーンを落として続けた。
「お前も浮気すればいいだろ」
 いつか口にするつもりだったその言葉。それが今だった。
 敏明に、特別動揺した様子は見られない。ただ黙って、テーブルの上のマグカップに視線を向けている。
「あの言葉って、私に、浮気の許可が与えられたってことでしょ?」
 念押しするように言うと、今度はすぐに反応があった。顔を上げた敏明の視線が私をとらえる。この時、いったい私はどんな言葉を待っていたのだろう。少なくとも、次に敏明が口にしたような言葉ではなかったはずだ。
「浮気と不倫は違う」
 予想さえしていなかった答え。「そ、それって……」と反射的に口を開くも、私には、その先どう反論の言葉を並べればいいのかがわからなかった。
「敏明さんが、それを、どう解釈してるのか知らないけど……」
「どう解釈してるか説明しよう。浮気と不倫の違いは、配偶者との関係を、第一に考えているか否か。単純に言ってしまえばその違いだ」
「敏明さんの場合と違って、私のしていることは、配偶者との関係をないがしろにするような、そういう極悪非道な行ないだってこと? そう言いたいの?」
「そうならないために言ってるんだ。取り返しがつかなくなる前にな」
「取り返しがつかないって、どういう意味?」
「わかるだろ、それぐらいのこと」
「いいえ。ぜんぜんわかりません」
「その男とは、まだ……、一線は超えてないんだろ?」
「一線って?」
「もう、こんなやり取りはよそう。一つだけ正直に答えてくれ。その男、成宮礼治に対して、お前は、まったく愛情を持っていない、そう断言できるか?」
 答えられなかった。礼治に対する気持ち、そのことについてだけは嘘をつきたくなかった。敏明が口にした“一線を超える”という意味ももちろんわかっている。“取り返しがつかなくなる”というのもその通りなのだろう。しかし、それでいいと思う。それしかないとも思う。
 浮気と不倫の違い。敏明の解釈で言えば、私は、浮気ができるタイプの人間ではなかったのだ。家庭を守りながら、夫以外の男性を愛するなどできない人間なのだ。そんな私に、今できることといえば、それはただ一つしかない。
「家を出ます」
 それが、私から夫への解答だった。
 準備をするため自室へと急ぐ。敏明の呆然とした表情が、一瞬だけ視界の隅に映った。引き止める声はない。今回の私の行動だけは、夫にとっても想定外のことだったのかもしれない。
 旅行バッグを引っ張り出し、とりあえず必要と思われるものを、次から次へと乱雑につめこんでいく。今の私には、ゆっくりと考えている時間などなかった。決意が揺るがないうちに、一刻も早くここから立ち去らなくてはいけないのだ。
 バッグを手に、一度リビングに戻る。なるべく敏明の姿を見ないようにしながら、すぐに玄関へと続くドアを開けた。
「成宮礼治について、どこまで知ってるんだ?」
 そんな声が、私の背後から追いかけてくる。
「もしかして、彼が、独身だとでも思ってるんじゃないのか?」
 無視して素早く靴をはく。勢いよく扉を開くと、私は外界へとその身を投げ出した。
「成宮礼治は、れっきとした既婚者だ。しかも、幼い子供まで……」
 私は駆け出していた。
 引き金を引いたのは敏明の方だ。一度放たれた弾丸は、途中で引き返すことなどできない。後は、ひたすらその場から離れていくことしかできないのだ。何も聞かずに。何も考えずに。
 近いうちに、こんな日がくるのかもしれない。どこかにそんな予感はあった。離婚した両親と同じ道をたどらないようにと、結婚相手は慎重に選んだ。安定した家庭生活を送れるようにと、私なりに努力も重ねてきた。しかし無駄だったらしい。私の中の深い部分で、終了を告げるゴングが打ち鳴らされていた。
 私は足を止めた。そばにあった自動販売機に体重を預け、乱れた呼吸を整える。そこが、すでにシャッターの降りた小さな薬局の前だということに気づいた。急激に力が抜けていく。そのままズルズルと身体は沈み、私は、とうとうその場に座りこんでしまった。
 鈍い動作で、どうにか携帯電話を手に取り、礼治の番号を呼び出した。
『も、もしもし……』
 耳に届いたのは、ちょっと苦しげな息遣い。
「礼治君。私、セシル……」
『どうしたんスか? そんな苦しそうな声で』
 先に言おうとしたセリフを取られてしまった。
「ううん、大丈夫大丈夫。ちょっと、悪い夢見ちゃって」
 相変わらずの下手な嘘をつき、私は、無理矢理明るい声で笑って見せた。
 礼治の方はランニングの途中だったらしい。そういえば、ボクシングの試合が近いのだということを、すっかり忘れてしまっていた。
「せっかくだから、もう少しだけ、走る距離を伸ばしてみない? ゴールには、缶コーヒーを持ったすごい美女が待ってるかもよ」
 礼治の笑い声が、私の耳をやさしくくすぐる。場所を教えると、その笑いはたちまち苦笑へと変わった。
『途中で電車使うのって、ルール違反っスか?』
「しょうがないなあ。じゃあ、条件つきで認めてあげる」
 通話の最後に、私は特別ルールの説明を加えた。缶コーヒーを持ったすごい美女を、今夜一晩宿泊させること。それが彼に与えられた条件である。
 一つの物語が終わろうとしていた。一つの物語が始まろうとしていた。ちょうどその間に私がいる。ジーンズのお尻を埃で汚した私がいる。微笑みながら自販機にコインを入れる私がいる。涙目で夜空を見上げる私がいる。
 後は待つだけだった。彼が駆けてくる姿を。そして、新しい物語の始まりを。
 明るい満月が、濡れた瞳に染み入る。そんな八月の夜だった。

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19 穏やかな朝
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