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不倫のライセンス 9 乾杯の準備

9 乾杯の準備

 相手について、どれだけのことを知るべきか。自分について、どれだけのことを知らせるべきか。私にとって、その二つは難問だった。一から十まで互いのことを知りつくす。それがすべて幸福に繋がるとは限らない。男女関係においては特にだろう。知らなかった方が幸せ、ということは確実にある。たとえば、夫による不貞行為の数々。たとえば、妻による夫以外の男性とのデート。
「“プチアリン”っていうのが、最終的な呼ばれ方でした」
 礼治が、苦笑混じりに教えてくれたことによると、アリンコ、プチアリンコ、プチアリン、という一連の流れがあったのだという。彼に付けられた学生時代のあだ名についてのことである。
「かなりのチビだったんで、まあ、今もちっちゃいんですけど」
 いつもの居酒屋で、私はまた一つ、彼についての新たな知識を得ることとなった。
 いじめられっ子だった、と笑って話す礼治ではあったが、その瞳の色はどこか悲しげに見える。
 知っても害のない情報。いや、ぜひとも知っておくべき情報。私の脳は即座に判断を下した。今の礼治の姿から想像すると、意外とも思えるその事実は、私と彼との数少ない共通点でもあったからだ。
「ああ、小学生の頃思い出すなあ。私もそうだったからね。いじめられっ子」
 それは礼治にとっても意外なことだったらしい。どう言葉を返せばいいのか迷っているようである。結局、スルメを口にすることでどうにか落ち着いたようだ。
「礼治君は、そのいじめ、どう克服したの?」
「最初は、煮干しだとか、牛乳だとか、とにかくカルシウムをたくさん取って、何とか背を伸ばそうと思ったんですけど……」
「それ、失敗したんでしょ」
「はい。無駄でした。あれって、カルシウム取ったぐらいじゃ駄目っスね」
「そうそう。カルシウムの効果なんて信用しちゃ駄目よ。イライラにもいいって言うけど、あれもきっと嘘」
「ある時、いじめられてるところを見られちゃったんです、好きだった女の子に」
 照れくさそうに微笑む礼治だったが、別の思い出が脳裏をよぎったのか、すぐさま苦い表情へと変化していく。
「へえ。それでそれで?」
 ドラマチックな展開を期待しつつ、私はやや身を乗り出すようにして話の先を促した。
「その子に見られてると思ったら、何だか急に恥ずかしくなって、無我夢中で拳を振り回したんスよ」
「うんうん。それで、にっくきいじめっ子たちをやっつけちゃったわけね」
「やっつけられちゃいました。だって、相手は三人ですよ。勝てるわけないじゃないスか。青春ドラマじゃないんだから」
「そうかあ。まあ、現実はそんなに甘くはいかないか」
「はい。だから、正確には克服できてないんです。でも、今やってることの原動力にはなってるはず」
「相手ボクサーを、その時のいじめっ子だと思うわけね」
「そうじゃなくて……。みっともなく負ける姿を、好きな人に見られたくないってことです」
「ふーん」
 このあたりの男心は、女の私にはちょっと理解しにくい。女性よりも男性の方が、社会的評価に敏感である、というのはどこかで聞いたことがあった。今の話もそのことに繋がるのだろうか。
「セシルさんの方は? いじめに、どう対処したんスか?」
「ううん。そうだなあ。どうだったかな……」
 思わず言葉につまってしまう。いじめられた経験を、誰かに話すということは、とても勇気のいる作業だ。あの時の悔しさ。あの時の恥ずかしさ。口に出すことで、その記憶、その感覚を、再び自らの心身に呼び起さなければいけないからである。
 結局、私もスルメの力を借りることにした。噛みしめながら、大急ぎで頭を回転させる。おそらくこれは、知らせてもいい情報だろう。私という人間を理解してもらうためにもきっと。
「私の場合……」
 声の震えを感じつつ、「この顔が原因だったの」と続ける。やはり、うまく微笑みながら、というわけにはいかなかった。
「外人外人って、小学生の頃よく言われたなあ。膚が白くて幽霊みたいだとか、何で日本にいるんだとかね」
 真剣な表情をして、私の話に耳を傾ける礼治。ここまでくると途中で打ち切ることもできなくなる。つまり、ビールの力を借りなくてはいけなくなるということだ。
「対処したっていうのとは、ちょっと違うんだけど……」
 口に付いた泡を拭い、頭に幼き頃の記憶を蘇らせる。
「別のクラスにいる男の子、近所に住む幼馴染みなんだけど、その子が、いろいろと助けてくれたの」
「いじめっ子を、やっつけてくれたんですか?」
「そんな簡単にいくわけないじゃない。青春ドラマじゃないんだから」
 私と礼治との間に、心地の良い空気が広がる。
「その男の子、面白いことばっかり言う子だったの。私のこと、いつもお腹が痛くなるほど笑わせてくれて……。今考えれば、私、あれでずいぶん救われたんだと思う」
 その男の子は、やがて私の恋人となった、と心の中だけで付け加える。きっとこれは、知らせなくてもいい類の情報に違いない。
「いじめられっ子だったって話、私、人に打ち明けたの、きっとこれが初めてだったのかもしれない」
「あ、聞いちゃまずかったっスか?」
 慌てる彼の表情を見つめたまま、私は笑顔でかぶりを振り、「乾杯したい気分」と、ビールジョッキを持ち上げた。
「乾杯って、何に?」
「いいからいいから。早くジョッキ持って」
 話を聞いてもらった。たったそれだけのことで、何か、重い荷物を一つ下ろすことができたような、重い荷物を半分持ってもらったような、重いと思っていた荷物が、実はそれほどの重さではなかったということに気づかされたような、とにかく、今は何かに乾杯したい、そんな気分だった。
「あ、ごめん。ちょっと待って」
 ジョッキが触れ合う音よりも、若干早く、私の携帯電話の着信音が鳴った。
『俺だけど。お前、今夜も遅くなるのか?』
 夫の声。その後ろから小さく聞こえてくるのは、テレビのニュース番組の音。どうやら、自宅からかけてきているらしい。
「遅くって……」
 素早く腕時計を確認。まだ午後十時を回ったばかりである。
「もうそろそろかな」
 自分の口調の変化に気づきつつも、「どうしたの? 何か急用?」と、構わずぶっきらぼうに聞き返す。
『いや、そうじゃないんだ。……今、居酒屋だったよな?』
 敏明の声音には、まるで、何かを探り出そうとするかのような響きがある。
「そう。居酒屋」
『友達とだって言ってたもんな』
「そう。ジムのお友達」
『何人で飲んでるんだっけ?』
「五人」
『カウンター席か?』
「テーブル」
『テーブル席に五人だと、ちょっとバランス悪いな』
「二つのテーブルに、二人と三人で別れて座ってるから」
『お前はどっちだ?』
「え? 何が?」
『二人の方か、三人の方か』
「あ、そうか。それって重要だもんね。実は三人の方なの。どう? 驚いて腰抜かしたりしてない?」
「酒の肴は何だ?』
「あのねえ……」
 私の声に、向かいに座る礼治は、ジョッキを手にしたままの姿勢で固まっている。
「もしもし。あ、あのね……」
 一拍置いてもう一度言いなおしてみた。もちろん今度は、できる限り声のトーンを落としてである。できる限り穏やかな笑みをたたえてである。できる限りやさしい女に見えるようにである。
「もしも、私の自伝を書きたいんなら、今度ゆっくり答えるから、今は遠慮して。ちなみに、酒の肴はスルメ。忘れないようにメモしておいて」
 それだけ言って、私は一方的に通話を打ち切った。
 敏明はどういうつもりなのだろう。トレーニングの帰りには、決まって毎週飲み会がある。いつも同じ店。いつも同じジム仲間。そのことについてはすでに承知しているはずだ。今までにだって、不満めいたことを口にしたことすらなかったではないか。お互いの意志を尊重しよう、という自らの主張を、敏明は今まで頑なに守り続けてきているのだ。
「旦那さんですか?」
 その声に、一瞬ギクリとする。すぐ目の前にいたというのに、礼治の存在を認識するまでに、ほんの少々の時間を必要とした。
「今の電話、旦那さんからだったんですよね?」
「違う違う。そんなわけないもん。旦那なんて、番号知らないし、携帯持ってないし……。れ、礼治君、何でジョッキ構えてるの?」
「乾杯の準備っス」
「え、ええと、何に乾杯するんだっけ?」
 敏明に対して、礼治に対して、私は上手に嘘をつくことができているだろうか。今夜の私は、きっといつもよりまばたきの回数が増えていたに違いない。

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札幌在住のアマチュア作家

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